597 名前:ヤスツ ◆cRIkF0ks 投稿日:02/05/26 19:10
>>596 新参者αさん
「平和主義」の実質が「譲歩主義」だと考えた場合、少しだけ謎解きができるような気がします。
まず、「平和」というのは、どちらか一方(もちろん交渉において負けた方)が、自分の主張を取り下げることによって、平行線を辿る主張を解決するための方法としての「武力行使(=戦争)」を回避した状態のこと、と考えることができます。
戦後の日本が「平和」だったのは、戦争に負けることで、「主張を全面的に取り下げる側」に立たされ、強硬に主張する国に譲歩したことが「再度の武力行使を受けない」に、戦後憲法の言うところの9条によって「武力行使を行えない」ということに繋がっています。
これは、「平和を希求している」という曖昧で善良な言い回しをしてはいるものの、その実体は「自発的に譲歩することが義務づけられた状態」であると読み解くことができます。
戦後教育もこれまで「平和思想」に基づいて進められてきていますが、これらも
「我を張らず相手に譲歩することが、敗戦国日本がしなければならないこと」
「譲歩(=謝罪や補償も含みます)することで、波風を立てない(=平和とは波風が立たないことだ、と理解してる人多くないですか?(笑))ようにする」
といった方向で進められてきていると思います。
つまり、「平和を持って良きものとする」という思想の正体は、「譲歩を持って波風を立てないことを良きものとする」と解することができます。
一連の「平和主義者」の方々が非武装中立を希求されるのは、「譲歩すれば大丈夫」「譲歩すれば許してもらえる」という思想が貫かれた結果だと思うのです。
で、なぜそこまで譲歩ができるのか。そこも考えてみました。
譲歩ができるということは、「被害が大きかろうと譲歩以外に選択肢がない」という困窮者の譲歩か、もしくは「譲歩してもゆとりがあり、施しを与えることで余裕を見せる」という金持ち(施主)の譲歩のどちらかが考えられます。
敗戦直後の日本は、言うまでもなく前者「困窮者の譲歩」だったでしょう。
それに基づき、「譲歩することが平和への道」という教育が行われたのが戦後日本。
さらに、高度成長、バブルなどを通じて経済力を高めた後は「我々(日本)はゆとりがあるのだから、施しをしなければならない。または、困窮者に対して譲歩しなければならない。譲歩することは長者の慈愛を示す善行である」といった意識が育ってきたのではないでしょうか。
ついでに言えば、平和運動などに力を入れているのは、労働組合系が多いですよね。
これも「譲歩」をキーワードに据えれば、理解できる気がしてきました。
労働組合というのは、雇用者(=企業)に対して「譲歩を強いる」ことが存在目的ですよね。
「我々はこんなに譲歩しているのだから、会社側ももっと我々に譲歩すべきなのだ」と。
そして、譲歩によってかかる費用などについては「会社」もしくは「国」が出すべきだ、奴らは富んでいるのだから、それをするのが長者の善行だ。どうせ俺たちの腹が痛むわけではない、と考えてる。
反戦平和思想の人々の脳裏にあるのは「戦争のない世界を前提とした理想」ではなく、 「何はともあれ我々が譲歩さえすればいいのだ。譲歩に難色を見せる者(つまり私のような者とか(笑))は、譲歩によって得られる『平和』を否定する戦争至上主義者だ」というようにも見えるのかもしれません。
昨今の有事法制議論を機に、「これ以上譲歩することは限界なのではないか」という現実主義者と、「もっと譲歩して平和を希求すべきだ」という理想的平和主義者の間の溝が埋まらないのには、以上のような理由があるのではないか……と愚考しました次第です。
ある程度の譲歩(妥協)は、人間が生きていく上で必要不可欠だと思いますし、意志疎通を図る上ではあっていいと思います。
が、無制限の譲歩を前提とした「平和捻出行為」を是とする考え方は、長じれば「他者の生存のために自殺することで報いる」という考えに至ってしまう可能性があると思います。
行き過ぎた理想平和主義が、善意の仮面をかぶった自殺礼賛主義である可能性を、当事者はもっと自覚すべきでしょう。
この、反戦平和主義(という名のペルソナをかぶった、戦闘的譲歩主義者)の方々は、「外国に対して譲歩すべきだ! 譲歩こそが平和に至る道だ」と強く主張されているにもかかわらず、「いや、譲歩すべきではない」という国内の別の意見に対して、
誹謗中傷を伴う戦闘的な姿勢で反論なさることが多いですよね。
そりゃもう、一歩も引く気配を見せもしない。
これまでに考察してきたように、「平和を成立させる」ためには譲歩しか道はなく、譲歩の促進による平和を錦の旗に連帯をなさっている方々ほど、反対意見に対して容赦がないし、譲歩をする気配を見せない。
やっぱり彼らは譲歩主義者ではないんでしょうか。
それとも、「国外には譲歩するが、自分たちが譲歩しようつするのを阻む国内の者は、すべて譲歩の邪魔者だ」とでも考えているのでしょうか。
私としては、その得意の譲歩主義で、私の述べる意見に対して譲歩の姿勢を見せていただきたいと思ったりしますが(^^;)
(補記)
譲歩主義者は、「自分はすでに譲歩している」という前提があるのではないかと考えます。自分自身はすでに譲歩主義に則って、自分自身が定義したラインまで下がっているのだ、こちらの譲歩は終わっており、次は相手が譲歩する番だ、と考えている。
だから、最初から相手に譲歩を強いる論調になるんだということが、薄々わかってきました。
その実、まったく譲歩になっちゃいないことなんか、「すでに譲歩しているつもり」の人には、わかっていない、けれども、「自分としては譲歩済みなのだから、おまえも譲歩しろ」という前提に基づいての譲歩主義なら、矛盾なく理解できる気がします。
彼らは、平和主義者改め戦闘的譲歩主義者改め、戦闘的譲歩強要主義者と言えるでしょう。
…………と、ここまで書いて、また思い当たったこと。
「譲歩主義者が平和を弁論(話し合い)だけで解決できる」と信じている根拠は何か。
それは、「口で何を言ったって、命までは取られない」という甘えが根底にあるということでしょうか。
確かに日本ではそうです。
でも、「デモに参加した」という理由だけで逮捕・撲殺されちゃう国だってあるし、そういう民衆から選ばれた指導者が国政を仕切っている国だって、国際社会に参加しているわけですよね。
彼ら譲歩主義者が現時点で相手にしているのは、「いきなり殴りかかってくるような相手(例えばスターリンのように、自分と対立する者に言い返す前に粛正しちゃうような)」ではなく、
我々のような(^^;)同じ「何を言っても命までは取るつもりがない日本人」であるわけで。
それだからこそ、前述の「口で何を言おうと命までは取られない。もちろん自分は『平和主義者』なので口で何か言うことはあっても、手を出すつもりは毛頭ない」
というスタンスから、「だから、物理的に危害を加えなければ、いくらでも口汚く罵っていい」という免罪符を自分自身に発行しているのではないでしょうか。
『平和主義』を騙る譲歩主義者が、妙に情緒的・好戦的または挑戦的に口汚い理由は、そこにあるのかもしれません。
「絶対に殺される心配がない」という幻想にも似た前提がある日本(そしてインターネット)だからこそ、「きっと世界中がそうだ」という錯覚を伴った「反戦平和非武装中立」 という極楽浄土思想が生まれてくるのでしょうね。
以上、ヤスツの独り言でした。